育休日記8日目・我が家の歴史

午前は、父が地区の敬老イベント(月に1回くらいやっているらしい)でギターの弾き語りをするというので、長男を連れて見物に行った。あまり物怖じしない長男がなぜか公民館に入りたがらず、30分くらいかけてようやく連れ込んだ。ご老人は男女合わせて10人くらいで、女性の方が多い。その他に地域の婦人会のような人たちが数人来て、お菓子を配っていた。曲は「埴生の宿」「高校三年生」「仰げば尊し」「琵琶湖周航の歌」といったところで、1時間あまり演奏して、少し歓談してからお開きとなった。女性陣に比べて男性陣は人数が少ないせいもあってかおしゃべりもあまりない。自分があのくらいの年齢になったらどう過ごすだろうか。長男は相変わらず深々とお辞儀をしたり、舌足らずに「ありがとうございました」と言っては愛嬌を振り撒いている。

私の実家は兼業農家で、それなりにいくつか田んぼを持っていた。祖父は牧場もやっていたらしい。末っ子長男の父と、県内の別の郡から嫁いできた母はともに医療系の公務員だった。

父は音楽が趣味で、ギターをよく弾いていた。よく「泊まり」で夜にいなかったのは、組合活動のために夜間・休日対応の部署に回されていたせいもあったらしい。まぁ、組合どころか「しんぶん赤旗」を配る、モノホンの党員だったわけだが。あんまり勉強ができるわけではなかったが、事務処理と調整の才覚があったのだと思う。最後はそこの団体で事務方トップまでやった。私の就職には反対したし、今も帰省するといろいろと言ってくるが、私が秘密を扱えなくなっていることを知って党を辞めてくれた。

母は最初は保健婦だった。実家は裕福ではなく、大学に行けなかったのがコンプレックスだったのだと思う。家にはとにかく医療・福祉関係の専門書が山のようにあり、仕事をして私と弟を育てながら大学に通い、最後には博士号を取った。医療系の専門学校の講師に転職し、さらに大学で助教になり、最後には教授になった。教授でいられたのは長くなかった。ガンで亡くなって、もう10年が経つ。今でも思い出すのは、ドラマの西遊記(よく覚えていないが94年の唐沢寿明主演のものらしい)を見ていたら「こんな非科学的なものを見るな」と言われたことである。毒親とは思っていないが、まぁ私の考え方に強い影響を及ぼしたのは間違いない。

父は5年ほど前に再婚した。再婚相手は父の昔の職場の同僚で、のちに酔った勢いでいろいろ聞いてみたが経緯について後ろ暗い事情はないらしい。それでも西遊記が許せない母と、「風水的にこのままではこの家(私の実家)には住めない」と言う再婚相手は違いすぎた。私はもちろん母と呼ぶ気にはなれないが、子供には「滋賀のおばあちゃん」と説明するしかない。もっとも、彼女は自分を名前で呼ばせたいそうだ。いろいろと苦労してきたという彼女も再婚であり、なかなか複雑な事情を抱えているようなのだが、あまりツッコミきれないでいる。

午後は昼寝の後、家の周りで長男と遊んだ。とはいえ、公園のような場所もないので、すぐやその家の敷地に入ったり、道路を駆け回ったりする。時には無理やり引き摺りながら、沈みかけている夕陽を浴びながらなんとか帰宅した。

育休日記7日目・卒論報告会

前日は21時過ぎに寝たというのに、自然に任せていたらまた9時まで寝ていた。中途覚醒はするのだが12時間も寝ていることになる。

睡眠が長いのは別に悪いことではないのだが、朝が9時起きではどうしてもその後の生活スケジュールが遅れていく。いわゆる夜型である。いくらなんでも2歳から夜型は早いだろうと、次の日からはそれなりの時間(8時くらい)に起こすことにする。

この日は午後1時半頃から、学部時代のゼミの卒論報告会が予定されていた。zoomミーティングによる実施であり、たまたま縁があって15年ぶりに呼んでいただいた。

私は関西の私大の法学部を卒業したわけだが、この学部には政治学科があり、その中で国際政治のゼミを選んだ。学部からはずいぶん離れたゼミに入ったと言えるかもしれない。教授はアメリカ政治と国際政治を専門にしておられ、リベラルな議論をされる方だった。そのゼミから年に1人近いペースで自衛官が輩出されているのは謎だが、自分としては国際関係論のイロハを教えてもらったし、政治的スタンスと研究者・教育者としての態度はまた別であったと思っている。

そういうわけなので、学部生がガザ紛争におけるパレスチナ側の宣伝を無批判に取り上げていたり、政権のメディア戦略の話で特定秘密保護法の話が出てきたりするのは温かく見守るべきで、むしろその広範なリサーチを評価すべきだろう。自分の学部の論文だってひどかった。

この間、長男は両親に見てもらっていたのだが、前日に引き続き昼寝ができなかった。妻と相談し、昼寝の習慣がなくなると困るということで4時からではあるが和室に連れていき、寝かしつけた。イチコロである。起きたら6時、寝かしつけを11時前から始めるも、やはり寝られないようで日付が変わる頃に寝た。生活リズムをコントロールするのは難しい。

育休日記6日目・育休の取りやすさについて

私が滋賀に長男と共に帰省したのは、祖父(私の父)と祖母(父の再婚相手)の手を借りたかったから、というのが偽らざる本音である。祖父母はともに仕事を退職し、祖父は民生委員など地域の役員を悠々自適にやっている。

私の実家のあたりは、滋賀の中でも山奥に入ったところで、平成の大合併で市制移行したものの、感覚的には「郡部」である。田畑があちこちにあり、電車は1時間に1本しか来ない。もちろん、滋賀にももっと田舎の地域はあるのだが。しかし田舎ゆえに広い一軒家で、複数の大人に面倒を見てもらえるというのは悪い環境ではあるまい。

子供の起床は相変わらず遅い。9時を過ぎて起きて、1時間くらいかけて朝食を取る。朝から再び雪が降っていた。前日のうちに戻ってきてよかった、と思う。怒られそうだが父から借りた軽自動車はノーマルタイヤのままである。

昼食後、リビングに寝転がったりして昼寝を促してみたが、どうにもダメだった。午前中のアクティブな活動が足りないのだろうか。あきらめて外に出て、家の周りの雪で少し遊ぶ。雪遊びというよりは、単に外を走り回っているだけだが、寒さを感じていないかのように元気だ。

夕飯は私が八宝菜を作ることにし、祖父母と長男と共に買い出しに出かけた。叔母の喫茶店で売れ残りのちらし寿司を買い(祖母は不満そうである)、スーパーで買い物をして帰る。本格的に料理するのは、恥ずかしながら年単位でブランクがある。手順に少し間違いがあったものの、最後はがっつり片栗粉でとろみを付ければそれっぽくなる。味付けも薄めにできた。特に長男には大事なことだ。

入浴後、祖母がYouTubeで「日本昔ばなし」を見せていると、長男は寝入った。21時過ぎの就寝は記録的な早さだ。そのまま寝室に抱いて行って寝かせた。

自分の実家で1日を過ごしてみて、やはり恵まれた環境だとは思う。世間の人がみんな両親の支援を受けられるわけではあるまい。また、子供が2歳になって少し手がかからなくなったおかげもある。いずれにせよ、ブログを書いたり職場のメールチェックをしたり、なんだったら本を読んだりする時間があるのは確かだ。

自民党が「産休や育休中にリスキリングをすればいいではないか」と提言していることが話題だ。話題というか、いわゆる炎上気味である。私の場合は、本来育休を取る名目になっている第二子がまだ病院におり、2歳児を祖父母と共に見ているからできる余裕なので、この点は参考にならない。

しかし、もともとの「なぜ育休を取りにくいか」については、私にも思うところがある。自分が1ヶ月の育休を取るにあたって何が障壁になったかといえば、1ヶ月職場に欠員を生じさせることにより、ギリギリで回っている課・班に迷惑をかけることであり、人事評価において密かに劣後させられるであろうことだった。つまり、自分としては上司や同僚に後ろ指を指され、昇任の不利になることを覚悟して育休を取った。特に前者は勇気のいることだ。

「1人欠けただけで無理の生じる職場が悪い」というのは簡単だ。でもそう叫んだって自分を見る周囲の目が良くなるだろうか。そんな話がウケるのはTwitterの中だけである。そういう意味では、育休中は育児に集中しろ・させろだけではなく、1日に1時間でもメールチェックをしたり、ミーティングに参加できるようなあり方ではないのか。特に男性などはその方が現実的ではないか。どうせ、普段は4時間睡眠で働いてるんでしょ。

育休日記5日目・産まれました

いよいよ手術日の朝。長男を義母に預け、妻と病院へ行く。雪が残っているのでタクシーを使う。

もちろん、妻のような計画分娩は少数派で、自然分娩の人は産気づいてから病院に来る。なので、手術の順番と時間は当日にならないとわからない。受付で妻を送り出して待つ。病院は妊婦最優先なので、男どもは基本的に受付の外、暖房のない椅子に座って待つ。

1時間もしないうちに、10時から手術だと言われる。一番最初になったらしい。病院の裏で抗原検査をする。自分でするのと違って容赦なく奥まで突っ込んで検体採取。いたい。

医療用ガウンと頭のカバーをつける。ガウンは最初、前後逆(いわゆるゼレンスキー状態)で着てしまった。手術室のある3階へ。またしばらく待つ。看護師さんに連れられて入る。執刀医の背中側あたりに椅子があり、そこで見ているように言われる。妻の顔も横にある。部分麻酔なので意識ははっきりしている。妻の腹がパックマンの口のように開いているのを見ると、ヒッとなった。もう佳境のようだ。

「そろそろですよ。準備してください」と言われ、あわてて携帯を構える。するすると血まみれの赤ちゃんが出てくる。血をぬぐわれ、へその緒をつけたまま取り上げられてきた。くぐもったような泣き声が響く。これが人が産まれる瞬間なんだ。元気な男の子だ…

すぐに赤ちゃんは連れていかれ、しばらく妻の腹が縫われていくのを見る。腹を縫う前に、開腹部から遊星からの物体Xマイルド版みたいな臓器が出ているのが見える。これが子宮なのか。驚くほど腹から飛び出して見える。うーん、これがいちばんショッキングかも。

手術室から連れ出され、新生児室へ。検査の間はガラス越しに見る。「抱っこしてあげてください」と言われ、久しぶりに横抱きにする。普段抱っこしている13キロの長男に比べて当然軽い。揺らしていると、寝るような、でも寝ないような…

妻が運ばれてきた。ここで赤ちゃんを再び渡して、おしまい。臍の緒を持って帰った。よく見る桐の箱に入っているが、乾かしてから蓋を閉めないとカビるらしい。

午後から、長男と滋賀県にある私の実家に来た。両親はよくしてくれるが、やはり夜寝る時は妻がいなくてずっと泣いていた。長男にとって、初めて母と離れた夜である。

育休日記4日目・そして…

自然分娩であれば、出産予定日はあくまで予定日に過ぎない。それより大幅に早まることもあれば、遅くなることもよくある。しかし、第一子が帝王切開だった妻は、必然的に手術による計画分娩となる。突然陣痛が来れば前倒しするが、基本的には決めた日に入院して、帝王切開手術をする。

そんなわけで、妻の出産日は1月26日と決まっている。よって、1月25日は出産の準備をする最後の日となった。よほどのことがない限り、泣いても笑っても翌日には開腹手術をするのであり、以後さまざまな制約があり、子供は2人に増える。

最後の日、妻は最後の妊婦健診を入れた。臨月となって毎週検診は受けられるので、慎重派の妻としては前日であっても胎児の様子を確認してもらったわけだ。あと手術前のPCR検査もある。実は、妊婦健診に初めて同行した。先生があっさりとした人で、妻も特段の異常がないためあっさり終わったが、いくら技術が進歩してもあのエコー画像で一瞬で判別するのはすごい。

午後はこれといった予定もなく、昼寝をしたり長男と遊んで過ごした。あとは妻は入院の、私は帰省の荷物を最終的に確認する。

京都は、というか全国的に雪である。10年に一度の寒波だとかで、外を出歩くにも寒いし、万が一妻が転倒でもしたら一大事である。そんなわけで、長男にはつまらない日になってしまったかもしれない。

一夜明けて、私は足立病院の家族用待合でこのブログを書いている。手術の時間は、まだわからない。

育休日記2日目・3日目

いきなり筆を折りそうになった。なかなかブログを書く時間がとれないというのもあるが、私が几帳面とは程遠い性格なせいでもある。

せっかくなので、自分たちの現状の生活リズムを赤裸々に書いておきたい。

朝は長男の起床による。私も妻も寝ているのであれば、だいたい8時半から9時くらいまでは寝てくれる。そこから朝食を取ればあっという間に10時。午前中は掃除や洗濯を(同じマンションの義理の母に手伝ってもらって)やることが多く、それだけで終わってしまう。朝が遅いので昼食は13時過ぎ。

午後に買い物や用事を済ませるのだが、問題は長男の昼寝である。これをどのように行動に組み込むかが難しい。車に乗せればかなりの確率で眠るのだが、変なタイミングで寝られると行動が制約される。だいたい15時とかに寝てしまうと、17時くらいまで寝かしてしまい、そこから帰宅になったりする。食事は19時より早いことはあまりなく、入浴するにも一揉めする(長男が入らない)ので就寝22時ならまだマシな方だ。寝かしつけ後、私と妻が再起動するのが23時以降であり、妻の出産のための入院準備や、その間の私と長男の帰省(妻の実家から私の実家へ)準備などをしていれば、この投稿時間というわけだ。そして昨日はそもそも再起動に失敗し、9時間以上眠りこけてしまったのである。

昨日は妻がお世話になっている助産師さんの面談だった。そこの産院に産後ケア施設として入るための見学と相談も兼ねている。助産師さんというのは人生の不安な時期に経験豊富なアドバイスをしてくれるわけで大変ありがたい。妻は京都市内で有名な足立病院で産むのだが、自宅や産院でお産をする人もおり、出産の形も多種多様だ。このあたり、興味を持って調べないと「幅」が分からないだろう。

今日は寒波が予報されていたこともあり、家でさまざまな準備をして過ごす。長男には退屈だったかもしれないが、夕食にカレーを食べたり、室内用の滑り台で遊んでおおむね機嫌よく過ごしていた。滑り台で遊んでいれば周囲の大人が喜ぶのだから、子供というのは得なものだ。

育休日記 1日目

育休を取った。

入隊から16年が過ぎようとしている。当時は男性の育休なんてかなり珍しくて、唯一知った例は薬剤師の人だったので「自分が取ることはないだろうなぁ」と思っていた。

結婚がなかなかできなかった一方、部下はできたので、まるで経験がないのに子供ができた部下に休みを取らせたりしていた。それにしたって仕事の性格上限界があったし、せいぜい1週間くらいだったと思う。現場チーフの進言通りに、「まぁ、子供の顔を見に行かせるってことなんだろうな」くらいに思っていた。

30過ぎで結婚して、35を過ぎて長男が生まれた。それまでの自分の無知を反省した。

子供を作るのは大変だった。最初は自然にできるかと思ったけど、もう年が年だしそうもいかなくて、産婦人科に通うことになった。それでもタイミング法で出来たからまだいい。「この日にヤらなきゃいけない」というのは、それはそれで辛かったけど。

しかし、2回流産した。いや、正確には流産ではなく切迫早産だ。改めて高齢出産の現実を突き付けられた(ちなみに妻は私の一つ年上である)。

ようやく授かった長男。妻は実家の京都を気に入っていたし、私の勤務先である東京には頼る相手がいなかったから、里帰り出産に続いて私が単身赴任になった。仕事もちょうど忙しく、私は遠慮なく職場に泊まり込み、長男は妻と妻の母にほぼ任せっきりだった。

長男が1歳半になった頃、妻は育休から復職することになり、東京の職場に勤務するため、ようやく家族揃っての生活が始まった。2人目はあっけなく(ほとんど意識していなかった)できた。私は相変わらず家庭をあまり顧みなかったが、一方で上司から「育休でも取ったらどうだ」と言われ、妻と軽い気持ちで盛り上がった。まぁ、この上司の言葉は建前に過ぎなかったのだが…

そんな中、妻が不正出血で緊急搬送された。大事には至らなかったものの、これを機に育休を取ることを上司に伝え、なんやかんやを経て、昨日から事実上の育休に入って、京都に来ている。

妻は出産を控え、やや感情的になりやすくなっているのを感じる。私があまり生活能力がないことも、彼女の苛立ちに拍車をかけている。

長男は2歳を過ぎてやんちゃの盛り。とにかく落ち着きがない。多動を真剣に疑っている。最近は妻への執着が増しており、まもなく自分だけのお母さんではなくなることを感じているのかもしれない。

生まれてくる子はまたもや男。先が思いやられる。

他にもいろいろ事情を書きたいが、あまりそういうのも本意ではない。今日は私の父が買ってくれた、室内用の滑り台を組み立ててみたが、案の定大はしゃぎだった。下手に触ると静電気がすごい。